チームの大黒柱、上本健太と村田将は親友でした。
健太は勝気、将は優しい性格で、それぞれ高校に入って
甲子園を目指そうと誓い合います。
2005年、健太は広島の名門、広陵高校へ、
将は地元の水産高校へ進学。
2人とも野球部に入りました。
ところが…
2006年2月13日…、健太に電話が入ります。
なんと将が倒れたというのです。
脳梗塞で、かなり危ない状況だと…。
そのあと、生命維持に必要な部分を残し、
他の部分の脳を摘出。
何とか命だけは取り留めました。
しかし目を覚まさず、広島からかけつけた
健太の言葉にも反応しません。
そして同じくかけつけた中学時代の野球部コーチから、
最近の調子について尋ねられた健太は言葉をにごし、
広島へと帰りました。
健太はその頃、名門校の野球部で苦しんでいたのです。
補欠に入ることも難しく、膝を故障していたのですが、
それを誰にも言えないでいました。
一方、将は手術の20日後に意識を回復。
しかし…知的レベルの後遺症はなかったものの
左半身がマヒしていました。
左は彼の利き腕です。
そして右脳は、左半身の機能を司っていますが、
右脳のほとんどを摘出しているため、
回復は絶望的でした。
両方のバランスが取れないと、
立ち上がることすら難しいのです。
いきなり車椅子の生活を送ることになってしまった将。
2006年7月、退院した彼に笑顔はありませんでした。
「いっそ死んだ方がよかった・・・」
一方、広島の健太は野球を頑張っていました。
怪我も少しずつ治り、
野球への情熱を取り戻しつつありました。
朝の5時から一人で練習し、力をつけ、
練習試合でも起用されるようになったのです。
そして春の選抜のための、重要な中国大会で、
もう1人のピッチャーとしてベンチ入りが決定。
そのことをすぐに将に電話で伝えました。
高校入学以来、進学校で勉強と野球の両立が忙しい健太からは、
電話がかかってきたことはなかったため、将は驚きます。
「中国大会に出るから見に来いよ。
一緒に甲子園に行くって約束しただろ。
俺はお前と行きたいんだ」
実は健太が野球を頑張っていたのは、
この約束を守るためでした。
8ヵ月前、倒れた将のところへ駆けつけた時、
広島に戻ろうとする健太にコーチが言ったのです。
「もう将は野球できないだろうな。
あいつのためにお前が出来ることはなんだ?
よく考えてみろ」
将が野球できない分、お前が将の分まで頑張れ…
そう言われて、このままではいけないと思った健太。
健太が必死に努力したのは、レギュラーになって甲子園へ行き、
病気に苦しむ将を連れて行きたいからだったのです。
2006年10月27日、中国大会開催。
将はスタンドで応援してくれ、
健太もマウンドに立ち活躍しました。
そして見事に広陵高校は甲子園出場を果たします。
将が試合後の健太に会いに行くと、
チームメイトは、みんな将のことを知っていました。
「そのおかげで気合はいった」
と言われる将。
健太が、「一緒に甲子園行こうな」と言うと、
将は、「うん」と笑いました。
しかし健太には、気がかりなことがありました。
それは、今でも将が、一緒に甲子園に行きたいと
思っているのかどうか…。
野球のできない苦しみを味わわせることになるんじゃないか。
将は優しい性格だから、傷ついても隠してしまうんじゃないか。
そして2007年3月、選抜開催。一回戦。
千葉の成田高との試合。
試合は、一対一の延長戦に入りました。
広陵はツーアウト三塁のチャンス。12回裏。
そこでバッターボックスに立ったのは…
健太でした。
代走として、出場後、初めて打席に立ったのです。
と、そのとき、健太にとって、まさに
驚くべきことが起こったのです>>>
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大きい歓声の中でも、将にははっきり聞き取れました。
将の声援が健太の耳に届いたのです。
将は声を限りに叫び、
一生懸命、健太に声援を送っています。
そして……
なんと自分の足で立ったのです。
健太が甲子園出場を決めた時から、
将に変化が起こっていました。
「自分の足で立って歩きたい。
健太は約束を守ってくれた。
僕もあきらめたくないんだ」
それは、右脳の6割を摘出した状態では不可能と思われることでした。
しかしそれでも、将は必死にリハビリを続け…
左足が動くようになり、そのあと数ヵ月で、
歩くことができるようになったのです。
このことに関して、医師に聞いてみると、
右脳を摘出したのに左半身が動くというのは、
左脳と左半身が結びつくネットワークができた、
としか考えられない…。
そしてそれは、確率的に言えば「奇跡」だそうです。
そんな将の姿を見た健太に勇気が沸き上がります。
対するのは、プロに入団決定の投手。
その球に必死にくらいつき、ついに、
ツーストライク、スリーボール。
健太は打ちました!
必死に走り、滑り込んで・・・セーフ!
それが勝利の1点となったのです。
なんという奇跡的な試合…!!
それは健太だけの力ではなく、
共に甲子園に来た親友が力を貸してくれたおかげ。
後に健太君(現在の彼)は、そのときのことを、
「将が立ってて、僕に頑張れって声かけてくれて
…胸が熱くなった。
ほんと嬉しかった」と語っていました。
そのあと広陵はベスト8まで進出。
夏の甲子園で準優勝に輝きました。
もちろん、夏にも応援する将の姿がありました。
将くん(現在の彼)もそのときのことを、
「甲子園のグラウンドにいる健太を見た時、
…めっちゃ喜びました。感動しました」と語り、
「頑張らないといけないなと思ってます」
と結びました。
そのあとも彼は努力し、左足を自由に動かせるようになりました。
しかも普通の人と変わらない速さで歩くほどまで回復…。
将くんのお母さんは、
「やっぱり仲間ってすごいですね」
と声を詰まらせていました。
将くんは
「健太は大切な…かけがえのない友達」と照れ笑い。
あの試合で、本来は控え選手だった健太がバッターに立ったのは、監督が、
「気持の強い彼ならやってくれる」と信じたからでした。
そして将は、健太を応援するために、
毎日一日3キロ歩いていたそうです。
二人は久しぶりに下関マリナーズのグラウンドで再会しました。
将くんは、全く動かなかった左腕も動かせるようになり、
握力も少しずつ戻ってきているそうです。
二人は懐かしのグラウンドで、仲良くキャッチボールを始めました。
将くんは、今は右手でボールを拾い、投げていますが、
いつか左でボールを投げられる日が来るまで、
親友でもあり、ライバルでもある二人の絆は続いていくのです…。