27年前の阪神淡路大震災で、
ボランティア活動に汗を流したUさんという青年がいます。
神戸市長田区で、毎日手作りの新聞を発行した人です。
被災地で情報を絶たれた方々にとって、
手作り新聞は、まるで砂漠の水のように重宝されました。
「神戸にいると世界が見える」
当時27歳のUさんは熱っぽくそう語りました。
そのUさんは、1996年の8月、休暇中にオートバイ事故のためお亡くなりになりました。
享年29歳でした。
Uさんの実家は埼玉県春日部市にあります。
ボランティア仲間の友人が、Uさん宅をお訪ねした時のことです。
お母さんとお姉さんが、それまでのUさんの活動などを語ってくれました。
Uさんは、大学在学中に、船を仕立てて世界で交流を深める
ピースボートの活動に加わりました。
世界一周の後、大学を中退し、アジアやアフリカで難民支援を行ったりもしました。
とにかく困っている人の力になりたいという気持の強い人だったのです。
しかし、親として、子供に先立たれるほど辛いことはありません。
また姉としても、弟を失くした悲しみには触れたくないものでしょう。
それでも、このお母さんとお姉さんの姿勢に、
ボランティア仲間は驚きつつ、胸を打たれました>>>
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Uさんのそれまでの歩みを語った後、お母さんが言いました。
「息子の生き方を知ったのは、死んだ後でした。
夕立みたいに、ザーッとあの子が素晴らしい人たちを
連れて来てくれました」
友人葬に千人が集まり、東京と神戸で追悼会が開かれたのです。
仲間が記念誌を作りました。
また、知らない人から手紙が次々に舞い込みました。
お礼や感謝であふれる文面ばかりでした。
お姉さんはこう言いました。
「私たち、世界一幸せな遺族かもしれません。
亡くなる順序が逆なら、知らずに終わった人たちに、
引き合わせてもらえたのだから」
お母さんは、息子Uさんの服を端切れにして、500個の巾着を縫い、
希望する仲間に贈りました。
オートバイも解体し、部品を全て分けたそうです。
「時々、心の中で言うんですよ。あの野郎には勝てないなって」
カラッとした口調でそういうお母さんの目には、
しかしながら、ちょっと涙がにじんでいたそうです。