日隈ジュリアス君は、なぜ野球に渾身に打ち込んだのか?

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015年10月22日のドラフト会議で、ある一人の高校球児の夢が叶いました。

彼の名前は、日隈(ひぐま)ジュリアス投手。

東京ヤクルトスワローズに第四指名でプロ入りが決定しました。

ジュリアス投手は、アメリカ人の父と日本人の母を持つハーフで、184cm77kg。

手足の長い長身から繰り出される、最速145キロの威力ある直球と、
110キロ台のスライダー、チェンジアップが持ち味のスリークォーターのサウスポーです。

彼には、どうしてもプロになって叶えたい夢がありました。

それは、野球でメジャーリーグにいって
「行方不明になったお父さんに気付いてもらうこと」です。

米軍地基地に勤めていた父フランクさんと、
沖縄で働いていた母敦子さんとの間に生まれたジュリアス投手。

弟のモンテル君も生まれ、家族4人で暮らしていました。

そしてジュリアス投手が4歳の頃、
父のフランクさんが軍の任務で日本を離れていた時に、あの大惨事が起こったのです。

2001年9月11日、3000人以上が命を落とした同時多発テロ。

この日を境に、フランクさんとの消息が途絶えました。

生死さえ分からない…母の敦子さんは、来る日も来る日もフランクさんの行方を探しました。

しかし同時多発テロ以降、米軍は個人情報の取り扱いが厳しくなり、
フランクさんの消息を掴む手がかりはありませんでした。

成す術もないまま、時間だけが過ぎていったある日、
ジュリアス投手は涙を流す母の姿を見てしまいます。

「私がしっかりしなくちゃいけない、
 分かってるんだけど、どうしたらいいのか…。」

夜中、子供たちが寝静まった時間に友人と電話する敦子さん。

子供たちの前では空元気に振る舞いながらも、陰で涙を流していたのです。

その後も、何回か電話しながら泣いている姿を見たジュリアス投手は、
「母の笑顔が見たい、自分が頑張らないと」と思うようになります。

母の苦しみを知ったジュリアス投手は、寂しさを胸の奥にしまい野球に打ち込みました。

そして敦子さんに決意を伝えます。

「僕、プロ野球選手になって、頑張ってメジャーに行くんだ。
 そしたらお父さんに会えるかもしれない。
 僕が絶対、お父さんに会わせてあげる。」

この日から、ジュリアス投手の本格的な野球人生が始まりました。

敦子さんは、毎朝5時前に起きて息子たちの食事を作り置き。

事務の仕事は深夜まで行うことも。

二人の息子を育てるために必死で働きました。

「野球で夢を追い頑張る息子の笑顔があるから」と、
敦子さんも前を向いて進むことが出来たそうです。

決して楽な暮らしではなかったけれど、
ジュリアス投手は文句ひとつ言わず、
弟モンテルくんの面倒を見ながら野球に打ち込んできました。

そしてジュリアス投手は15歳の春、母の元を離れ高知中央高校に進学。

このとき彼は、ある写真をお守り代わりに持って旅立ちました。

ベッドのそばに飾られた2枚の写真。

「夢を叶えたい」という気持ちをいつも奮い立たせてくれる、
一番最後に撮った家族写真です。

父はきっと生きている、そう信じて全てを野球に捧げました。

そして、実力が認められプロから注目される存在になったジュリアス投手。

「メジャーでプレーできたら、全米にニュースが広がる。
 もし父に会えなくても、頑張っていると分かってくれたら。
 恥ずかしいけれど、それがボクの夢です。」

14年経っても変わらない夢。

そのひたむきな姿は、共に闘った仲間たちにも希望を与えました。

そしてドラフト会議を迎える彼へ、心強い応援が届きます!

心強い仲間たちからの声援を胸に、運命のドラフト会議当日。

朝から緊張して、学校でもソワソワしていたジュリアス投手。

手に汗握る中、四巡目に東京ヤクルトスワローズから指名を受けました!!!

まるで自分のことのように、願い、喜んでくれる仲間たち。

彼らの存在も、大きな心の支えになったのではないでしょうか。

緊張から解放されたジュリアス投手の元へ、ある人から一枚の手紙が届きます。

その手紙は、長らく彼が待っていた
日隈家族にとっての運命の手紙だったのです>>>

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はドラフト直前の2015年9月、父、フランクさんを発見したという連絡が。

フランクさんは現在、アメリカ・カリフォルニア州にいるということでした。 

Dear my son 親愛なる息子へ

ジュリアス、お前が人生の難しい決断をしなければならない時に一緒にいられなくてごめん。

でも、いつもお前のことを考えていたよ。

「ジュリアス」という名前の由来を知っているかい?

私がお寺でお母さんに読んだ本から考えた名前なんだ。

また、お前に連絡ができるなんて思っていなかったよ。

海兵隊員だった私は、様々な戦場に派遣されて、アフガニスタンとイラクで2回の戦争を経験したんだ。

その戦争で負傷して軍隊を辞めることになった。

メジャーリーグでプレーするというお前の夢が叶うことを祈っている。

いつか一緒にキャッチボールができるといいな。

お前が元気そうで嬉しいよ。

自分の夢を叶えるために全力を尽くしてほしい。

私は父親としてお前の夢を現実のものにするために、出来るだけの支援をするつもりだよ。

ジュリアス、愛しているよ。

離ればなれで過ごした時間を、いつか取り戻せることを願っている。

2001年に起こった同時多発テロのあと、長い戦争に駆り出されたフランクさん。

戦場で心と体に深い傷を負い、リハビリを余儀なくされていました。

戦争と訓練の繰り返しで、家族のことを考える余裕もない…。

怪我で軍を辞めてからも「もう自分は家族に合わせる顔がない」
と自らを責め続ける日々が続いたそうです。

母の苦労を知っているジュリアス投手は、
父の発見を手放しで喜べる状況ではありませんでしたが、素直な気持ちを笑顔で語りました。

「存在していてくれただけで嬉しい。
 誰が何と言っても、僕のお父さんは世界で一人しかいない。
 ありがとうだけを伝えたい。」

ジュリアス君が、ずっと心の支えにしていた家族写真。

フランクさんも同じように、家族の写真を心の支えに生きてきました。

「戦争で多くを失った。でも、この写真だけはいつも持っていたんだ。」
そう語るフランクさんの手には、ジュリアス君、敦子さん、モンテル君の写真が。

写真を通して、互いを想い合っていた父フランクさんとジュリアス投手。

これからは、会えなかった時間をゆっくりと埋めていきたいと語ります。

ジュリアス投手の次の夢は、日本を代表するピッチャーになること。

最後にこれからの野球人生を力強く明言しました。

「20年間プロ野球でプレーすることが目標なので、それに向けて頑張っていきたいです。」

これだけの強い想いと、今までの努力はきっと報われるはずです。

ジュリアス投手が、一日でも早く一軍のマウンドで活躍されることを期待しています!

ジュリアス投手、頑張ってください!

出典URL:http://grapee.jp/104324

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