この話は戦時中、学徒兵だった方の、当時を振り返った手記です。
昭和19年春、私は海軍予備生徒として、三重海軍航空隊にいました。
いわゆる学徒出陣のはしくれでした。
「貴様たち学徒兵はたるんどる。
海軍士官たる者、もっと娑婆っ気を抜かねばならぬ」
と、毎日が人間改造のシゴキでした。
そして、一通りの訓練が終わった頃、
全員引率されて伊勢神宮参拝ということになりました。
皆はその日は、解放感を楽しんで帰隊しました。
兵舎で雑談していたら突然、
「全員飛行場に集まれ」のスピーカーが鳴りました。
何だろう?
顔を見合わせながら兵舎を飛び出しました。
整列が終わった頃、号令台にいかつい飛行長が上がりました。
また叱責の爆弾が落ちるのか?
不安がよぎりました。
容貌、体格ともに仁王様のようにいかつく、
我々には遠い存在の人でした。
「本日の伊勢参宮にあたって、貴様たちの中に
海軍士官にあるまじき行動をした者がいる。
誠に航空隊飛行長として恥ずかしい限りだ」
そして、士官としての心構えを説かれました。
それは、うどん屋に入ってうどんを食った者がいる、ということだったのです。
空腹のあまり、誘惑に負けたわけです。
当時、食べることの魅力は絶大だったのです。
海軍士官の面子と威厳の問題だというのです。
今なら、なんとくだらぬ話だと思うでしょうが、
その時は素直に受け止めて、不思議とも思いませんでした。
その場で、その者たち数名は、下士官への降格と原隊復帰を下令されました。
解放されて兵舎に戻るとまた大騒ぎになりました。
各自の机の蓋が開いたままになっていて、
机の中が検閲されているのです。
「おい、日記がないぞ」と叫んだ者がいました。
私もハッとして、日記を探しました。
「しまった」
胸が騒ぎました。
日記の表紙に「○○に残す」と恋人の名前を書いていたのです。
そして離れ離れの家族への思い、
恋人への哀愁のつぶやき、
死への恐怖など、それは先ほどの飛行長の訓示で指弾された、
いわゆる娑婆っ気たっぷりの記載だったのです。
また数名の名前が呼ばれ、分隊長室への集合がかかりました。
次々と名前が呼ばれます。
私も覚悟を決めました>>>
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覚悟を決めた私ですが、結局、私の名前は呼ばれずに済みました。
ホッと胸をなでおろしましたが、何となく後ろめたさを感じました。
ここで名前を呼ばれた者も、うどんを食った者と同じく、
降格され、陸戦隊に派遣されることになったのです。
そして翌日、机の上に検閲を受けた日記が返されていました。
私は急いでページをめくりました。
最後の空白に、こう記されていました。
「日記のみが貴君らの自由なスペースである」
そして、U分隊士と、署名捺印がありました。
U中尉は、京大出身の予備士官です。
その上官である大尉は、海軍兵学校出身で、
海軍独特の態度と威厳を保持した海軍魂の権化のような人物でした。
検閲者が、大尉でなくU中尉(分隊士)であったことが、
私のこのピンチを救ったことになりました。
軍隊にもこんな人がいたのか、とつくづくそう思いました。
このギリギリの自由の価値を誰よりも認めてくれた、
この人となら、一緒に死ねると思いました。
ごく自然にそんな気持が沸き起こってきたものです。
当時、我々は物悲しい旋律の巡見ラッパ、
陸軍では消灯ラッパが待ち遠しかったのです。
解放感もさることながら、夢を見る喜びだけが自由でした。
素晴らしきもの、それは自由です!
戦後の混乱と歳月で、U分隊士の消息は不明です。
ご存命ならば、お元気であってほしいと思います。
今日、これほど自由な社会に住んでいて、
何かいい話はないかと問いかけてみると、
探さねばならないほど、少ない気がします。
そして、平和についてもまた同じ思いがします。
枯渇したような今日の社会、
簡単にして、動機さえない殺人など、
平和の中にある孤立した「ばけもの」の増殖が、
すごく怖くて不安です。
心にしみるいい若者の話を、たくさん聞きたいものです。
亡き学徒戦友への冥途の土産に。
参考本:心に残るいい話(佐賀新聞社)