どの家庭も当たり前のように食料不足の時でした。
Kさんのお宅は、お母さまとお姉さんと少年だったKさんの三人家族。
お兄さんが、学徒出陣で飛行隊に配属されていました。
今度の日曜日には、初めての面会日という時でした。
満足に食べるものの無い時期でしたが、
お母さまはお兄さんに、せめて大好きなぼた餅を食べさせたかったのです。
知り合いの農家に頼み、モチ米と小豆を手に入れるつもりだったのに、
お母さまは急病になり、それが出来ずに一人落ち込んでいました。
見かねたKさんが学校を休んで、お母さんの代わりに行くことにしました。
以下、Kさんの手記からの抜粋です。
代役を無事に果たして、心も軽く家路へと急いでいたその時であった。
「コケ、コケ、コケッコ」
一瞬、めんどりの激しく泣き叫ぶ声が、道端の農家から聞こえてきた。
卵を生んだよと知らせている声である。
兄ちゃんはゆで卵が好きだったな、
よし、譲ってくれるよう頼んでみよう、
と私は勇気を出して格子戸を開け、何度となく声をかけたが、
家の中はひっそりとして返事が無い。
仕方なく帰りかけて、ふと鳥小屋を覗いてみると、
生みたての卵が二つ箱の中に納まっていた。
私は夢中で、卵を右と左の手のひらにつかんで、
田のあぜ道を横切り、駅へと突っ走っていた。
「卵の一つや二つ、あの家の人は、何とも思いやしないさ」
後ろめたい気持ちをかき消そうと、無理に自分を納得させ、
意気揚々と帰ってきた。
得意満面に語る私の目の前で、母は悲しい目をして卵を見ていた。
そして、私を激しく叱りつけた。
卵を盗んだのは悪い、でも兄に食べさせたい気持ちは、
母と同じなのだから、叱られるはずはないと思っていた。
「みんな私が悪いの。こんな体でなければ、
あの子に盗みなどさせずに済んだのに。
あの子の優しさを考えると、本当は嬉しかった。
私だって、お兄ちゃんの喜ぶ顔を見たさに、
同じことをしたかもしれない。
そう思うと、あんなに叱ったのは酷だったかもしれない。
でも人を喜ばせるためなら、悪いことをしてもいいという
間違った考えを、今教えてやらなければ、
後で取りかえしがつかなくなると思ったの、だから…」
その後は言葉にならず母は泣いた。
「ね、お母さん、明日、マーちゃんと一緒に、
この卵を返しにいってくる、
話せばきっと相手の人も判ってくれるわ」
翌朝早く、姉にせかされて家を出た。
「気をつけてね」
病床から抜け出して、玄関まで送ってくれた母は、
何気ない仕草で、私の学生服の襟をなおしてくれた。
「ごめんね」と詫びているような母の手の温もりに、
なぜか涙がこみあげてきそうだった。
到着した家の前で、姉は私を待たせ、
顔をこわばらせて中に入って行った。
まもなく姉に呼ばれ、私は恐る恐る家の敷居をまたいだ。
土間に据え付けたかまどの前に、
この家の主人らしき男が背を向けて藁をくべていた。
薄汚れた手ぬぐいで頬っかぶりして、半てんをひっかけている姿を、
パッと上がる火が映し出していた。
こちらを振り向く前に、私は土間に手をつき、
泣きながら自分の非を詫びた。
それでも男は動こうとも、しゃべろうともしなかった。
もう私は、押しつぶされそうな重苦しさに耐えるのがやっとだった。
突然、男が立ち上がった。
顔中無精ひげだらけの大きな体だった。
私はじっと目をつぶって体をこわばらせた。
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びくついている二人の目の前に、
男は、茶碗二個を乗せたおひつと鉄鍋をどかっと置いた。
「食え」
二、三度顎をしゃくりあげると、背を向けて藁を燃やし続けた。
姉と私は、鉄鍋に入っている味噌汁をかけて食べた。
久しぶりに腹いっぱい食べて満足した私は、
卵のことなど忘れていた。
「なあ、ぼうず、姉ちゃんから話はすっかり聞いた。
姉ちゃんも立派だけど、ぼうずのお母はもっと立派だ。
もう心配かけるでねえ」
初めて聞くこの家の主人の言葉は温かく、胸にじんときた。
謙虚な笑いは、今でも心の中に残っている。
主人は、返した二つの卵を五つにしてくれた。
そして、兄と母へ、柿の実とざくろの実を添えてくれたのだった。
帰り道、私は嬉しくて、もう一度卵を取り出して見た。
ほんのりと赤味のある卵が主人の優しい心を映しているようで、
尊く輝いて見えた。
今度こそ、母に喜んでもらえる卵を差し出すことが出来ると思うと、
私は姉の呼び止める声を後ろに聞きながらも、
全速力で駅へと駆け出していた。
出典:PHP特集 一日が楽しくなる生き方
「尊い卵」より