激しかった雷雨は小雨に変わっていた。
家庭教師のアルバイトからの帰り、
大学生の伊賀崎俊(22)は、千葉県と都心を結ぶ私鉄・
北総線、新鎌ヶ谷駅のホームにいた。
2003年9月4日午前0時20分。
5分前に着くはずの電車はまだ来ない。
雷雨によるダイヤの乱れは続いていた。
俊が携帯メールで友人とのやり取りをしていると、
男性のふらつく影が視界をよぎった。
酔っていた。
崩れるように1メートル下の線路に落ちた。
ホームには2~30人いたが動かなかった。
いつ電車のライトが迫ってくるか知れない。
が、俊は意を決してホームに飛び降りた。
男性はレールの間に倒れ、動かない。
上体を抱き起す。
「重い!」と感じた時、乗客の一人が降りてきた。
渾身の力でホームに押し上げた。
男性は腕を骨折していた。
翌日、千葉県印西市の自宅で、
俊は母に前日の遅い帰宅の理由を話した。
俊の話を聞くや、母の真理子は、
「何てことしたの。非常ベルもあるじゃない」と叱った。
2001年1月に起きたJR新大久保駅の事故が脳裏をかすめたからだ。
ホームから落ちた人を救おうと、二人が飛び降り、
輪禍の犠牲になったのだ。
俊は生まれつき耳が聞こえない。
聴覚障がいでは最も重い2級だ。
珍しく、俊は母に言い返した。
「人が倒れているのに、ほったらかしにするのがいいことなのか」
俊は京都府八幡市で生まれた。
二人兄弟の次男。
生後6ヵ月の1981年冬、「感音性難聴」と診断された。
【音のない世界】の宣告。
絶望の中で、真理子は息子を抱いて施設に通った。
当時の補聴器は服の下につけても人目についた。
不憫に思い、外出する時はたまらず外した。
ある日、街で同じ障害を持つ女児を見かけた。
補聴器がワンピースの上にあった。
衣服のすれる音が入らないようにするためだった。
「いったい私は何をしているのだろう」
人目を気にして、俊自身の困難を二の次にした自分を恥じた。
「強くなろう。この子を育てていくんだ」
その頃の俊の学校での様子はこんな感じだった。
「お前の言葉は分からない」
千葉に転居し、小学校に上がった俊に
「宇宙人」というあだ名がついた。
会話に入りたくて、唇の動きから言葉を追いかけても、
そのスピードについて行けない。
家に入る前に何度悔し涙をぬぐったことだろう。
それでも、教科書をなぞって進み具合を教えてくれる友人がいた。
大変ありがたかったが、
いつまでも友情に甘えてはいられなかった。
成長し、大学受験の頃になると、予備校では孤独だった。
受験生に自分の相手をする余裕などない。
さらに社会に出れば、もっと厳しい現実がある。
心の中で不安が募ったのは確かだった。
※そんな俊君が、勇気ある青年に成長するきっかけは、
お母さんから与えられました>>>
↓Facebookの続きは、こちらからどうぞ↓
大学に入った年、俊の不安を察していた母に、
災害救援ボランティアの講習を勧められた。
俊は思った。
色んな人に助けられて生きてきた。
が、いつまでも頼っていていいのか。
せめて自分の身は自分で守りたい。
そして一人で生き抜く力を身につけたい。
講習の合宿に参加した。
人を助けたことはなかった。
言葉が伝わるか、トラブルになったら……
という思いが先に立ち、
困っている人を見かけても動けなかった。
ここを乗り越えなければ、自分の足で立っては行けない。
しかし、障がい者にも乗り越えることは出来るはずだ。
止血法や蘇生法を習得し、
「セーフティリーダー」に認定された。
短い期間ではあったが自信を得た。
何があっても対応できる。明日へと踏み出せる気がした。
新鎌ヶ谷駅で転落を目撃した夜、
その時が来た。
周囲を見回した。
誰も動かない。
「俺が行く」と決断した。
同時に救助の鉄則を反芻した。
自分の安全を確保して行動に移る。
線路脇に待避所があるのを確かめた。
小学一年からサッカーを続け、体力には自信があった。
1~2分あれば。
「助けるんだ。大丈夫だ」
自分の声をはっきりと聞いた。
救助から10分後に電車は来た。
名前も告げずに立ち去った。
「俺って、人の命を救えたよな」
確かな手応えをつかんだ。
半月後、母の真理子は突然、男性の妻から電話を受けた。
「主人に万一のことがあれば、私たち家族は
路頭に迷うところでした。何とお礼を申し上げればいいか」
男性の妻は事故の翌日、誰が助けてくれたのか駅に尋ねた。
ポスターを貼って、俊を探しだした駅から、
数日後に連絡があった。
面倒を避け、災厄を恐れて人と関わろうとしない時代。
駅員が救助したとばかり思っていた妻は、驚いた。
「事故を知らせる人はいても、まさか、
そんな人がいるなんて」
ただ、ただ頭が下がった。
夫が治れば伺いたい。その前にどうしてもと、
電話をかけたのだった。
幾度も幾度も繰り返される感謝の言葉。
真理子は息子を叱ったことを悔いた。
人の役に立って欲しいと願ってきた息子が、
一人の一家の命を救った。
誇りに思った。
「もし、もしも俊の耳が聞こえたら、
この電話を聞かせてやりたい」
真理子は切実にそう思った。
参考:読売新聞2004年1月3日付け関西版掲載