「アフリカ系アメリカ人」などという言葉は、まだ生まれていませんでした。
肌の色の違いが、民族の優劣を象徴していると、
当時のアメリカでは多くの人が信じていました。
1936年、ジャーナリストであり黒人運動の指導者であるデュボイスは、
満洲に1週間、中国に10日間、日本に2週間の旅をしました。
白人社会が、有色人種に与えてる影響を視察する目的でした。
その時の感想として、「ピッツバーグ・クリア」紙に
「忘れがたい経験」と題したコラムを連載しています。
上海での出来事でした。
デュボイスの目の前で4歳くらいの白人の子どもが、
中国人の大人3人に対し、鼻持ちならない態度をもって、
自分たちが歩く道をあけるように命令しました。
すると、大人たちは振り返り、白人少年の姿を認めると
みな、あわてて道をあけたのです。
デュボイスは愕然とし、かつ悲しい気持に陥りました。
これはまさにアメリカ南部の光景と同じではないか。
「上海、この世界一大きな国の、世界一立派な都市は、
なぜか白人の国によって支配され、統治されている」
上海に限らず、当時のアジアの多くの地域では、
当たり前にみられる光景だったのです。
デュボイスは、日本を訪問しました。
日本でデュボイスが目撃した光景は、
日本人と中国人の違いを感じさせたものでした。
本当は、日本人と中国人という民族性の違いではなく、
当時、置かれていたお国の立場の違い、
と言っていいかもしれません。
しかし、あまりの相違にデュボイス自身は、
日本という国への好感を禁じえませんでした。
東京の帝国ホテルでの場面です>>>
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デュボイスが東京の帝国ホテルで勘定を払っている時のことでした。
「いかにも典型的なアメリカ白人女性」が、
さも当然であるかのように、彼の前に割り込んだのです。
ところが、ホテルのフロント係は、女性の方を見向きもせずに、
デュボイスへの対応を続けました。
勘定がすべて終わると、
彼はデュボイスに向かって深々とお辞儀をしました。
それからやっと、その厚かましいアメリカ女性の方を向き、
何ごとも無かったかのように、チェックアウトの手続きをしました。
フロント係の毅然とした態度は、
デュボイスにとって、これまでの白人支配の世界とは違った、
新しい世界の幕開けを予感させました。
「母国アメリカではけっして歓迎されることのない」一個人を、
日本人は心から歓び、迎え入れてくれた。
日本人は、われわれ1200万人のアメリカ黒人が
「同じ有色人種であり、同じ苦しみを味わい、
同じ運命を背負っていることを、心から理解してくれているのだ」
そのように述べています。
現在なら、当たり前の光景が、当時は当たり前ではなかった。
ところが、日本ではその「当たり前」が当たり前に行われていた。
デュボイスの目には、そんな日本人の振る舞いが
「将来あるべき差別なき社会」に映ったのです。
以来、ニッポンファンになったデュボイスは、日本のことを、
「有色人種による、有色人種の、有色人種のための国である」
と述べています。