お父さんがふたりになりました

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れは忘れもしない10年ほど前の、
夏真っ盛りの八月の出来事でした。

「N子、さっきから、スキーを捜しているのだけれど、
 いつもの場所にないんだよ。
 家中、見て歩いたのに、さっぱり出てこない。知らないかい?」

「えっ、お父さん、今、何て言ったの?」

「明日、学校のスキー遠足があるから、どうしても、
 今日中にスキーを捜し出さないと困るんだ」

わが父、七十四歳のときのことでした。

元、小学校教員で、家中の誰よりも読書家で、
どんなに難しい漢字や言葉もよく知ってる人でした。

子供心に、そんな父が自慢でもありました。

その父が老人性認知症になったのです。

当時の私のショックは、とても言葉では言い尽くせません。

なぜなら、何十年も一緒に暮らした私の知ってる父が、
何の予告もなく、忽然と母と私の目前から消え失せ、
かわりに、姿かたちが父とそっくりな、
宇宙からのエイリアンと出会ったような、妙な感覚を持ったからです。

そして、悲しいかな、母や私のショックより、
父自身が何よりショックを受けていました。

「ここはどこなんですか?」

と自宅にいるのに不安げに尋ねました。

「気がついたら、ここにいたんです。お金もないんですけれど、
 どうか、今晩ひと晩だけでも泊めていただけませんか」

家族に敬語を使い、気を遣い、途方に暮れている父でした。

「何言ってるの。ここは自分の家でしょ」

私も始めのうちは、認知症のことが分からず、
父を何とか現実に戻したくて、ついキツイ言葉を発しました。

そんな時、父は決まって、パニック状態になりました。

「”お父さん”って私のことですか?
 私はまだ15歳です。それに、ここは私の家ではありません。
 その証拠に、私のお父さんもお母さんもいません。
 毎日、いつ来るのかと待っているのに・・・」

「お父さんの頭、すっかり子供時代に戻ってしまっているんだね」

母と私はため息をつきました。

もう私の知ってる”以前の父”は、世界中のどこにもいません。

私も父同様、寂しかったけれど、そのうち、
”新しい父”との生活にも除々に慣れてきました。

そして、ちょっと嬉しい、楽しいことも出てきたのです。

それは、純真な少年、青年時代の父との出会いでした。

「ボクも親に苦労をかけたくないから、
 早く仕事を見つけて自立しようと思っているんです。

 あなたも、いい仕事が見つかるといいですね。
 あなたは出世するような気がしますよ」

大学院を出ても仕事がなく、とりあえず、
会社の電話番のパートをしている私が、
「安定した仕事に就いて、一日も早く、
 年老いた親を安心させたい」とぼやいた時、
”新しい父”は、そう励ましてくれたのです。

また、ある時、

「お嫁にもいかず、今まで心配ばかりかけてごめんね」
と言った私に、

「私も同じです。私も、とうに嫁さんをもらう年なのに、
 学校の参考書ばかり買って、結婚資金が全然貯まらないんです。

 お互いに頑張りましょう。

 あなたは器量は今ひとつだけれど、性格が優しいから、
 きっといい人が見つかりますよ」

以前の父は、優しいけれど、厳しくもありました。

例えば、「パートの仕事しかない」と愚痴を言えば、

「それは、自分の人生と仕事に対する真剣さが足りないからだ。
 面接の人は、そこまで人を見抜くものだ」

という言葉が返ってきたりしました。

そうして月日は、あっという間に流れ、
父は体調不良を訴え病院を訪れました。

父は癌を宣告されたのです>>>

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院の帰り、タクシーの中で、自分の病気の重大さが、
直感で分かったらしく、父は男泣きしました。

「お父さん、気づくのが遅れてごめんね」

認知症という病につきあうのがやっとだった母と私は、
父に心から詫びました。

「仕方ない。これも運命だ」

父は一瞬でしたが、”以前の父”に戻って、
キッパリとそう言ったのです。

やがてみるみる身体が衰弱して、歩行不能に陥っても、
父は転びながら這いながらも、トイレに通う努力をしました。

その時の父の真剣な表情に、私は、かつて父が言った、

「真剣さが足りない」という、

本当の意味が、ふいに分かった気がしました。

緊急入院をし、血を吐き、
体中から出血するような苦しみの中にあっても、
肺炎を併発し、酸素を入れる太い管が肺まで入って、言葉を失っても、
父の眼差しは、私の人生を肯定し、見守り続けてくれました。

同時に、”新しい父”は、私に老い方や死に方を
徹底的に教えてくれたように思います。

ありがとう!お父さん。

私、もうひと頑張りしてみるね!

そしてまた来世も、お父さんと出会えますように。

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