なぜその猟師は仏様を撃ったのか?

b159
、京都の愛宕山に長年修行を続けている聖(ひじり)がいました。

ひたすら修行に明け暮れ、ほとんど庵を出ることもありませんでした。

近くに住む猟師は、そんな聖(ひじり)をことのほか尊敬し、
たびたび訪れては食べ物などを差し入れていました。

あるとき、久しぶりに食料を籠に詰め込んで、
聖の住まいを訪ねると、

「お-よく訪ねてくれた。しばらく見ないから、
 どうしておるのかと気がかりじゃった。
 元気そうで何よりじゃ」
と聖は大変喜び、久しぶりの再会に話が弾みました。

そのうち聖は最近体験した不思議な出来事を、猟師に話し出すのです。

「実はな、最近たいそう尊いことが起きるのじゃ。
 というのはな、このところ毎晩、普賢菩薩さまが白い象に乗って
 この庵にやって来られるのじゃ。
 まあ、これも、長年の修行によるもんだろうかなあ。
 きっと今晩もお出ましになられると思う。
 お前さんには信じがたいことだろうが、
 今晩ここに泊まって一緒に拝んでみたらどうじゃ」

聖の誘いに猟師は、一晩泊まることにしました。

夜のとばりも降り始めた頃、いつものように聖の読経が始まりました。

その背後で、猟師は今か今かと普賢菩薩の出てくるのを待っています。

夜半過ぎかという頃です。

東の山の嶺をすさまじく風が吹き渡り、
暗闇の中から五色の光がさしたかと思うと、
白い象に乗った普賢菩薩がしずしずと空中から舞い降り、
庵の前にお立ちになり、じっとそのお経を聞いているではありませんか。

聖は感動の涙を流しながら、なおも一心不乱に読経を続けます。

その時です。

聖の背後でこの不思議な光景を眺めていた猟師が、
何を思ったか、持っていた弓に矢をつがえ、
普賢菩薩めがけて思いっきり矢を放ったのです>>>

スポンサーリンク

↓Facebookの続きは、こちらからどうぞ↓

の瞬間、「ギャー」という叫び声と共に、
普賢菩薩の姿はかき消え、一瞬にして元の暗闇の世界に戻ったのです。

何事が起こったのか、しばらく呆然としていた聖は、
それが猟師の仕業であることに気づくと、烈火のごとく怒りました。

「お前はなんという恐ろしい奴じゃ。
 こともあろうに普賢菩薩さまに向かって弓を引くとは、
 何と罰当たりなことをしてくれたもんじゃ。愚か者めが」
と、激しくののしったのです。

聖のあまりの剣幕のすごさに、じっと頭を垂れていた猟師でしたが、
おもむろに顔を上げ、申し訳なさそうに、

「お上人様、あれは菩薩でも何でもありません。ただの妖怪です」
と、答えたのです。

その頃、里では妖怪が出没し、幼子の血を吸ったり、
食べ物を食い散らし、家に火をつけたりなど非道の限りをつくしていたのです。

「馬鹿なことを言うな。何を証拠にそのようなことを申すのじゃ」
「いいえ、確かに妖怪でございます」
「まだ血迷うたことを言うか」
「いいえ、妖怪に間違いありません」

二人の間で、このような押し問答が続けられたのですが、
お互いの言い分は収まらず、翌朝改めて、
真偽のほどを確かめることにしました。

夜の明けるのを待ちかねて、二人が庭先に下りてみると、
昨夜は暗闇で何も見えなかった草むらに、
大量の血痕がついているのを見つけました。

何者かが傷を負いながら逃げたのでしょう。
点々と血の痕が続いているのです。

その痕をたどっていくと、何と谷底に年老いたタヌキが
とがり矢で射抜かれて死んでいるのが見つかったのです。

胸を射抜いたその矢は、紛れもなく昨夜放った猟師のものです。

これを見た聖は大いに恥じ入り、そして猟師に言ったのです。

「なんと恥ずかしいことを・・・だまされていることに気付かずに。
 それなのに、お前さんは一目見て妖怪だと見抜いた。
 なぜ分かったのか、教えてくれぬか」

猟師は答えました。

「お上人様、あなた様のように修行の出来たお方の目で
 菩薩さまが拝めるというのなら話はわかります。
 でも、私のような愚かな者に菩薩さまが見えるはずはございません。
 ところが、昨夜、この私にでも菩薩さまを見ることが出来たのです。
 見えるはずのないものが見える。
 とすればこれは間違いなく妖怪だと思ったのです。
 もし妖怪ではなく本物の菩薩さまでしたら、
 私のような者の弓矢は簡単にかわせるはずです。
 だから弓夫を放ったのです」

これを聞いた聖は、その猟師の冷静な洞察力に感心し、
自らを深く反省するとともに、
それからは、これまで以上に仏道修行に精進したということです。

最後に語った猟師の言葉には、まことに味わい深いものがあります。

猟師は自分が愚かな人間であることを知っていました。

ところが、聖の方は、長年の修行が却って仇になって
「これくらい修行できたら、菩薩が見えても当然だ」
とうぬぼれていたのでしょう。

それが慢心だということに、聖は気付かなかったのです。

その心(慢心)にタヌキはつけこんだのです。

猟師のように「私のような愚かな者に仏様が見えるはずがない」と、
自分を知っている者を、タヌキはだましようがなかったのです。

愚かであるということと、愚かを知るということは
全く違うというお話でした。

スポンサーリンク