関東大震災の混乱期に、頭角を現した企業人

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1922年(大正11年)、高等学校を卒業したばかりの
自動車好きの15歳の青年が上京しました。

京の文京区本郷にあるアート商会という
自動車の修理屋に見習工として就職しました。

自動車の修理の仕事が出来ると思いましたが、
赤ん坊のお守りと雑巾がけしかさせてもらえません。

現実は丁稚奉公でしかなかったのです。

赤ん坊のお守をしていると、一日何度も小便で背中が濡れます。

その度に「畜生」と思いました。

青年は失望のあまり、何度も
「荷物をまとめて郷里に帰ろう」と思いました。

しかし、送り出してくれた父親からの、
「暖簾(のれん)をわけてもらうまでは辛抱しろ」
という言葉が頭をよぎり、思いとどまります。

とにかく耐えることにしました。

そして半年すると、突然の大雪で故障車が続出し、
修理工の手が足りなくなりました。

その時に青年も狩りだされることになります。

喜んで修理の仕事をすると、元々手先が器用だった青年は、
期待以上の成果をあげ、主人に認められます。

以後子守や雑用から解放されました。

好きなことでもあり、青年は、修理の仕事をみるみる覚えていきました。

しかし、翌年の9月1日の昼前、突然、遠い地鳴りが聞こえたかと思うと、
立っていることもできないほど、大地がグラグラ揺れました。

関東大震災です。

アート商会の建物が大きくきしみました。

あちらこちらから火の手が上がります。

アート商会にもその火が近づいてきました。

修理工場だから、多くの自動車を預かっています。

預かった自動車を焼いたら弁償しなければいけません。

主人が「自動車を安全なところへ運転して運べ」と号令をかけました。

今まで修理はさせてもらっても、運転はさせてもらえなかったので、
人生で初めて自動車の運転をすることが出来、
惨状の中、この青年は密かに感激しました。

しかし、アート商会も類焼は免れることは出来ず、
店舗は消失してしまいました。

青年は、主人の家族とともに、
神田駅近くのガード下に移転することになりました。

一面焼け野原の惨状を見て、
それまで15人あまりいた修理工は、皆いなくなってしまいました。

残ったのは、この青年と兄弟子、合わせて2人だけでした。

しかしこの焼け野原となった惨状の中、
この青年は勇敢に行動します。

多くの被災者を出した関東大震災です。
不謹慎ではありますが、青年は、この危機のとき、
まるで水を得た魚のように知恵を絞りだし、
八面六臂の活躍をします。

青年がこのとき、どんな行動をとったか、
また、この青年は誰の若い頃の姿だったのか、
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が食料品屋の倉庫だったので、焼け残りの缶詰を探し出し、
それを食糧にして、一家とともに飢えをしのぎました。

次に仕事を再開しなければなりませんが、
一面焼け野原で仕事などありません。

そこで青年は、神田川に落ちていたオートバイを拾い上げ、
修理をして、焼け野原を駆け回りました。

避難民は、田舎に帰りたいが、
交通機関は麻痺して動けないという人が大勢いました。

そこで青年は、物を運搬するアルバイトを始めました。

金があっても買う物がないので、
人々は気前よく10円、20円と運び賃を払ってくれました。

帰りにはその金で、農家から米を買ってきて、主人一家の食糧に充てました。

オートバイで駆け回るうち、
青年は芝浦で、焼け出された多数の自動車を見つけます。

見たところ、修理によって再生可能に思えました。

青年は、その多数の自動車の修理を、一手に引き受けることにしました。

主人はそんな車、エンジンがかかるわけがないと反対しましたが、
青年は「何とかやります」と主人を強引に口説いたのでした。

不眠不休で焼けた車の修繕にとりかかります。

ボディーはもちろん、車台も焼けていますが、
中には被害の少ないものもあり、
そんなのを選び、バラバラに分解しては、
使えそうな部分を取って組み立てていきます。

焼けてガタのきたスプリングなども焼きを入れ直しました。

車の塗装をすませ、エンジンをかけてみると
不思議なほどに動き出します。

主人は「お前は天才だ」と感嘆しました。

この修理した車は、震災後の物価騰貴もあり、
なんとフォードの2倍の値段で売れたそうです。

すっかり主人の信頼を得た青年は、それからも仕事を自ら探し出し、
何でもこなしていきました。

そしてアート商会に来て6年目、21歳の時に、
念願だった「のれん分け」をしてもらえることになりました。

21歳でののれん分けは、後にも先にもこの青年一人だけでした。

郷里に帰り、彼はこうして故郷に錦を飾ったわけです。

父親が息子の独立を喜んだのはいうまでもありません。 

この青年は後に世界の自動車メーカー、
本田技研工業を創業する本田宗一郎氏です。
 
本田宗一郎は、当時のことを振り返りこう述べています

「関東大震災に深く感謝した。
 なぜなら震災がなかったら、
 自動車の初運転、オートバイの内職、修理の技術など
 マスターできなかっただろうからである」 

重ねて言いますと、
大震災の時のことですから不謹慎ではありますが、
頭角を現わす人は、(戦国時代や明治維新、戦後の混乱期など)
治のときではなく、乱のときをその土壌として
世に登場することが多いようです。

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